御由緒
御祭神 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
御本殿 三間社流造 間口三間・奥行三間
すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。
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東海道に面する立木神社は、江戸時代に大宿として栄えた草津宿の歴史絵巻物(太田酒造株式会社【草津市】保管)にもその姿が描かれ、古くから由諸ある神社として親しまれてきました。御神徳(厄除開運・交通安全の大神)
延暦(えんりゃく)20年(801年)、征夷大将軍坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)将軍が、東北鎮圧に際して、当社にて道中安全と厄除開運を祈願され大般若経一部を寄進しました。この霊験に由来し、現在では厄除開運・交通安全の守護神として崇敬を広く集めています。
また、当社は古来より朝野の崇敬厚く五穀豊穣、家内安全、安産、商売繁盛、火災鎮護並びに勧学の大神としてご神徳高く広く信仰されております。
また、当社は古来より朝野の崇敬厚く五穀豊穣、家内安全、安産、商売繁盛、火災鎮護並びに勧学の大神としてご神徳高く広く信仰されております。
立木神社の歴史 ~ゆかりの社宝・人~
奈良時代 | 神護景雲元年 (767年) |
武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸(ひたち)国(茨城県)の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ、諸国を経てこの地に到着されました。手に持たれていたご神木の柿の木を社殿近くに刺し、不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出したとのこと。里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。 |
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宝亀8年 (ほうき)(777年) |
冬より翌年3月にかけて大旱魃になり、琵琶湖の水が枯渇し宇治川の水が絶えそうになりました。時の天皇・光仁(こうにん)天皇(第49代)は憂慮され、中臣諸魚(なかとみのもろうお)を勅使として当社に遣わし雨乞いの祈願をさせたところ、大雨が降り万物が蘇生しました。天皇は殊の外お喜びになり社殿の造営を命ぜられ立木大明神の勅額を賜りました。 | |
延暦5年 (えんりゃく)(786年) |
桓武天皇(かんむてんのう)(第50代)より正一位の神階を授かりました。 | |
平安時代 | 延暦20年 (えんりゃく)(801年) |
征夷大将軍・坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)将軍が、東北鎮圧に際して、当社にて道中安全と厄除開運を祈願され大般若経一部を寄進しました。 |
室町時代 | 長享元年 (ちょうきょう)(1487年) |
室町幕府9代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)が栗太郡釣村に在陣時、武運長久を立願し、四脚門(しきゃくもん)(現在の楼門)を奉建しました。 |
江戸時代 | 正保2年 (しょうほ)(1645年) |
膳所城主(ぜぜじょうしゅ)石川主殿頭忠総が社領23石を寄進し、境内摂社の造営にも力を尽くしました。以後代々の城主より崇敬されました。
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延宝8年11月 (1680年) |
京都壬生村・あしだの行者万宝院が、刻銘から伊勢神宮と京都の愛宕神社に七年間毎月参詣し、それを感謝した記念として建てられた道標(みちしるべ)を建てました。旧草津宿追分の東海道と中山道の分岐点にあったものを当地境内内に移されました。県内最古の道標として受け継がれています。 | |
文久元年 (1861年) |
江戸幕府第14代将軍徳川家茂に御降嫁された皇女和宮(孝明天皇異母妹)が草津本陣をお通りの折、当地で神官が用いた陣笠が今に残っています。 | |
明治時代 | 9年 (1876年) |
村社に列格。 |
14年 (1881年) |
郷社に昇格 | |
18年 (1885年) |
我が国の新聞学研究の先駆者として小野秀雄翁(おのひでお)は、明治18年当社神官の家に生まれました。 日本で最初の新聞発達史を出版。日本新聞学会創立に努力し、名誉会長の称号を贈られました。 新聞学の基礎を確立した業績を称え、顕彰碑が建立されています。 |